母性的養育の剥奪と愛着・絆の研究(3)

心の臨床家のための精神医学ハンドブック

(3) 母性剥奪の変数とその要因に関する研究

 1970年代にmaternal deprivation の研究で大きな役割を果したのはラター (Rutter, M.)らの研究である。ラターら(1972, 1979)によると、maternal deprivation には、種々の異なる心理的メカニズムによる種々の異なった原因による現象が含まれている。

[1] 母親との分離
 母親からの分離ひいてはdeprivation とか対象喪失と言われている現象は、一元的な経験ではなく、たくさんの変数からなる多元的な経験である。この分離の変数には、分離の原因、分離期間中における養育のパターンや性質、乳幼児の年齢と成熟の程度、分離の前と後の家族関係の性質などが含まれる。そして、幼児の年齢や気質や過去の経験によって、分離の乳幼児にとっての意味は、それに対する反応も多様である。したがって、分離が有害なものとなる場合にも、その決定的な要因は分離が生じている個々の特殊状況にある。分離そのものは精神障害へのリスクの指標(indicator)とみなすことはできても、それ単独で直接原因とみなすことはできないという考えが一般化するに至った。
 例えば、ラターは、病院や乳児院に入った直後の幼児の示す急性反応障害(acute distress syndrome)の直接的原因は、分離そのものではなく、大人への愛着行動が妨げられたことである。ロバートソン(Robertson, J.) は、親からの分離後、家庭に預けられた幼児にはこの反応が観察されなかったことを報告している。また、親と離別した幼児が成長するにつれて、反社会的行動のような行動障害を呈することの直接的原因は、分離そのものではなく、分離に先立つ先立つ家庭不和や家庭葛藤などの病理にある場合もある。その一方、情性の欠如したパーソナリティ(affectionless psychopathy) のような人格障害は、親からの分離以前の、早期幼児期の、母親との情緒的な絆の形成(bonding) の失敗も関与している。また、親から分離して施設に入った幼児の知的発達遅滞(intellectual retardation) は入所後、十分な意味のある感覚的・知的体験が与えられなかったことにも起因しているという。

[2] maternal deprivation の変数をめぐって
 maternal deprivation の概念に含まれる複雑で多様な規定要因としての変数には、次のようなものが挙げられる。
■早期の感覚・認知刺激
 早期乳幼児期の母性的養育は、愛情のみならず、乳児の中枢神経系の発達を促すような感覚・認知刺激、母親の情緒応答性、抱いたり、揺すったりするというhandling、深部感覚的な様式による交流が乳児の集中力や意欲や言語認知能力の発達に重要である。
■発達段階と段階特異性および臨界期の問題
 分離体験と発達特異性について言えば、マーラー(Mahler, M.) の自閉段階と共生段階の比較的無反応な分離に比べ、生後1〜2歳の再接近期の分離は顕著な動揺を引き起こし、3歳以降の対象恒常性の確立した後の分離はより問題が少ないと考えられている。ひとたびdeprivation による悪影響が生じた場合の回復力、可逆性については、早期乳幼児期の重篤な認知能力と対人関係の障害は、従来考えられていたよりも可逆性が高い。その際も、障害の程度や期間と治療的試みを開始した時期と、治療の内容によって回復力は異なる。また、早期のdeprivation のその悪影響が、その後の発達体験の様相によって強化されるか、緩和されるかといった、発達の各段階における相互間の作用も重要な課題である。
 さらに、早期にdeprivationを次々と体験しながら、成人期に一見良好な適応を示している人物についても、その人物の人格のより深いレベルの心的機能についてはさらに解明が課題となっている。
■deprivation耐性の問題
 1980年代の中心的課題となった動向は、幼児の発達環境の何がポジティブな要因となり、何がネガティブな要因となるかを同時的に力動的にみていこうとする観点である。
 deprivation耐性の手がかりになるものとして、ストレッさーになる要因の複数の組み合わせ、環境が時間の経過とともにより改善されるか、より有害化するか、固定するか、乳児自身の性別、気質、遺伝的素因(例えば男児の方が生物学的にもかかわらず、心裡社会的ストレスに弱い可能性がある)、家族要因(傷害された家族の幼児が片方の親とのみ一貫してよい関係が保てた場合の予防効果など)、家庭外の要因(家族状況が悪くても、子どもに対して発達特進的なよい機能をもった保育施設、学校での生活など)などを総合的に研究することが課題になっている。
■maternal deprivation と世代間伝達
 maternal deprivation の長期的な悪影響について、1970年代以降における新しい一つの認識として、幼児期のdeprivation の悪影響は、特に母性行動について世代から世代へと伝達される可能性が指摘される(例えば母親自身が私生児であったり、親の離婚や別居を経験した場合には、そうでない母親よりも2倍の高率で私生児や婚外妊娠のケースが発生しているとか、あるいは幼児を虐待する親の大半が自ら幼児期に自分の親に暴力を加えられていること、幼児期に両親の葛藤的な関係のもとで育った人物ほど、自らの結婚においても挫折しやすいことなど)。幼児期のdeprivation が、このように世代間伝達の問題が新しい課題になっている。